河口浅間神社をはじめ、本来浅間明神を祭っていたはずの浅間神社の祭神が、どこの浅間神社でも木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)となってしまったのはどうしてでしょう。
日本神話では、
木花咲耶姫命は山の神である大山祇命(おおやまつみ)の娘で、瓊瓊杵尊(ににぎ)の妻である。瓊瓊杵尊は天照大神の孫で、地上に降りたことから天孫降臨と言われ、父親は天忍穂耳命(あめのおしほみみ)、母親は高皇産霊神(たかみむすび)の娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめ)である。
瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命の子が、火照命(ほでり)、火須勢理命(ほすせり)、火遠理命(ほをり)で、火照命は海彦、火遠理命は山彦で知られている。
火遠理命の妻は海の神である大綿津見命(おおわたつみ)の娘の豊玉姫(とよたまひめ)、いわゆる乙姫である。火遠理命と豊玉姫の子が鵜草葺不合命(うがやふきあえず)である。鵜草葺不合命の妻も大綿津見命の娘の玉依姫(たまよりひめ)で、鵜草葺不合命と玉依姫の子が神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)といわれる神武天皇である。
河口浅間神社の裏手を流れる寺川を遡っていくと、富士講の登山者が禊を行った母ノ白滝があります。この滝の祭神は木花咲耶姫命の姑にあたる栲幡千千姫命で、織物の神といわれています。
産屋ヶ崎先端の岩山に祭られている産屋ヶ崎神社の祭神は火遠理命と豊玉姫で、この地に産屋をしつらえて豊玉姫が鵜草葺不合命をお産した所ということで、毎年4月25日に催行される河口浅間神社の例大祭「孫見祭」は、木花咲耶姫命が産屋ヶ崎神社へお産見舞いに出かけるというものです。
本来の浅間明神への鎮火の奉謝祭は、7月28日に行われる「稚児の舞祭」で、太々御神楽祭といわれます。
さて、本題である浅間神社で木花咲耶姫命を祭祀することが、文献としてわかっているのは17世紀初めになってからだと、富士吉田市の歴史民俗博物館を訪れた時に教えてもらいました。
また、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝には、木花咲耶姫命は水の神で、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとあり、火伏せの神だとあります。
また、記紀神話において、木花咲耶姫命が火の中で無事に天孫ニニギの子を出産したとあることから、妻の守護神、安産の神、子育ての神とされています。
江戸中期になり、古事記、日本書紀などを再考する国学の影響を受けて、以来浅間大神は木花咲耶姫命であると解釈されるようになり、火中出産の解釈を変えて、木花咲耶姫命は火の神とされ、山神である父の大山祗から譲られた富士山に鎮座する神だという解釈もあります。
本来浅間神社の創建は、浅間明神の怒りを鎮めるために奉祭したもので、木花咲耶姫命を浅間明神と同一視するのはおかしいでしょう。
浅間明神を奉祭した上で、合わせて木花咲耶姫命に浅間明神を鎮めてもらうというのであれば、浅間大神と木花咲耶姫命を同一とするのでなく、合祀するというのが理にかなっていると思います。
また、平安末期に富士上人と号す末代は、富士山に登ることが修行であると登ること数百回、その修行中にしばしば浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)が現れたことで、この浅間大菩薩と浅間大神は同一で、大日如来でもある、また神仏は男女を超えたものであるとの悟りを得て、山頂に大日寺、麓に興福寺(現在の村山浅間神社)を建てています。
浅間大神(あさまのおおかみ)から浅間明神(せんげんみょうじん)となり、神仏習合の流れの中で浅間大神と浅間大菩薩(せんげんだいぼさつ)が同一視されたものの、江戸時代の国学により、富士山に鎮座する神は木花咲耶姫命であると解釈され、明治維新後の新政府による廃仏毀釈の影響を受けて、浅間大菩薩に通じる浅間大神の代わりに、木花咲耶姫命が祭神として定着したのではないでしょうか。
市川三郷町高田の一宮浅間神社
ところで、式内社浅間神社の論社考証に取り上げられている市川三郷町高田の一宮浅間神社(いちみやあさまじんじゃ、いちのみやせんげんじんじゃ)の由緒に、木花咲耶姫命を祭神とするいわれがありますが、その内容が気になりましたので紹介します。
12代景行天皇の御代(71~130年)に創建。貞観6年(864年)富士山大噴火の翌年12月、勅命により、正体山に浅間大社を祀り、延長2年(924年)10月現在地に遷宮したと言われている。
貞観の創建は、富士山の神である木花咲耶姫命が、現鎮座地南方の正体山に噴火の難を逃れるために遷ったのが契機であったといい、延長2年に正体山の里宮であった現社地へ遷座し、山上の旧址には山宮として山祇社を奉斎した。
貞観の創建は、勅命により正体山に浅間大社を祀ったが、それは富士山の噴火から逃げ出した木花咲耶姫命が正体山に鎮座したからだとあり、浅間明神を奉祭するというのではなく、木花咲耶姫命を祭神とするがための後世の作り話としか思えません。
浅間神社で木花咲耶姫命を祀ることはかまわないと思いますが、富士山を御神体とする浅間大神と富士山から逃げ出した木花咲耶姫命を同一視することに納得できかねるだけでなく、木花咲耶姫命をそのように扱うこと自体に疑念を覚えます。
地震の神「なゐの神」について
噴火の鎮祭だけでなく、地震の鎮祭についてはどうなっているのか、気になりましたので調べてみました。
『日本書紀』に、推古天皇7年(599年)の夏に、大和地方を中心とする大地震があり、その後、諸国に地震の神である「なゐの神」を祀らせたとあるそうです。
「なゐ」は地震の古語で、元々は大地のことで、地震が起こることを「なゐふる(大地が振動する)」といったようです。
現在「なゐの神」を祀っている神社が見当たりません。三重県名張市下比奈知の名居神社(ないじんじゃ)は、「なゐの神」を祀る神社であったとする説もありますが、現在は大己貴命(おおなむち)、つまり大国主が祭神となっているようです。
日本神話と結び付き、その解釈の違いから、木花咲耶姫命のように信仰の意義が変えられてしまうのも残念ですが、日本神話と結び付いていない「なゐの神」などが忘れ去られていってしまうことも残念です。
自然を畏敬する信仰が薄れてしまったことにも通じていて、自然との向き合い方を真摯に考え直したいと思っています。