三ツ峠登山口の一つに位置する河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)のことを調べてみました。
河口浅間神社の神社案内によると
■住所
山梨県南都留郡富士河口湖町河口1番地
■神社名
延喜式内名神大社浅間神社
■祭神
木花咲耶姫命
■由緒
第56代清和天皇の御宇、貞観6年(864年)5月に富士山西北の峰で大噴火があり、住民が甚大な災害を被ったことを、甲斐国史橘末茂公より朝廷に奏上する。翌貞観7年12月9日の勅命により、鎮火の神の浅間明神をこの地に奉斎して、無位擬大領伴直真貞を祝に、伴秋吉を禰宜に任じて、富士鎮火祭を行う。これが当神社の創杞で、郡家以南に建立して官社に列せられる。
■社格
醍醐天皇の御宇、延喜の制により明神大社に列せられる。
■祭日
4月25日 例大祭(孫見祭) 神輿産屋ヶ崎神社に神幸
7月28日 鎮火奉謝祭(稚児の舞祭) 俗におだいだい(太々御神楽祭の意)という
■宝物
大元霊 額 醍醐天皇御震筆
・・・と記載されています。
社格に記載されている延喜の制と名神大社について
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により編纂を開始し、延長5年(927年)に完成した格式(律令の施行細則)が『延喜式』です。
臨時祭の条によると、国家的事変が起こった際、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するため臨時に行われる国家祭祀が名神祭で、名神祭の対象となる名神は神々の中でも特に古来より霊験が著しいとされる神の称号でした。
名神を祀る神社は、勅許を得て神祇官の神名帳と諸国の神名帳に記載されていたもので、これらの神社は結果的にすべて大社扱いで、名神大社と呼ばれていました。
明神は、同音の名神に代わって9世紀半ば頃から使われるようになったもので、名神が延喜式にいう名神祭にまつられる特定の神格に限っての称号であるのに対して、明神は祭祀上の限定はないものとされますが、当初から従来の名神と混用されていたようです。
延喜式の巻九・十には、集大成された神名帳が記載されていて、この延喜式神名帳に記載された神社、および延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される論社を合わせて、延喜式内社、または単に式内社といいます。
式内社研究會編『式内社調査報告』皇學館大學出版部は、1977年から1986年にかけて、2800余社に及ぶ全国の式内社の所在・祭神・由緒・論社・現状等について、 多数の学者を動員して行った全25巻に及ぶ調査報告書であり、昭和56年(1981年)発行の第10巻東海道5伊豆国・甲斐国には、甲斐国八代郡に創建された延喜式内名神大社浅間神社の論社考証が記述されています。
この八代郡浅間神社については、それ以前から諸論があり、河口浅間神社とする資料が多く見られたにもかかわらず、現在の笛吹市一宮町にある一宮浅間神社が式内社であるという調査報告となっていますが、この論社考証に対して、河口浅間神社こそが本来の式内社であるという論駁資料を見つけましたので紹介したいと思います。
『日本三大実録』の記述内容について
論社考証の対象となった延喜式神名帳に列する八代郡の浅間大神を祀る官社のことは、延喜元年(901年)成立の『日本三大実録』に記述されていますので、その内容を確認しておきたいと思います。
これは平安時代の清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の三代にわたる、天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間の歴史書です。
■貞観6年5月25日の記述に、駿河国からの報告で、富士山が噴火し、溶岩が本栖湖に流れ込み、甲斐国の境に達した。
■同じく7月17日の記述には、甲斐国からの報告で、富士山が爆発し、溶岩が八代郡の本栖湖とせの湖を埋め、その東の河口湖の方にも流れた。
これに対し、朝廷は、このような災害は駿河国が富士の浅間大神を祀ることを怠ったからで、駿河国はもちろん、甲斐国でも浅間大神を祭るように通達しています。そして、
■翌貞観7年12月9日の記述に、甲斐国八代郡に浅間明神の祠を立て、官社に列して、即ち祝と禰宜を置いて、祭らせる。
先に甲斐の国司が言うには、八代郡ではこれまで暴風や大雨、雷、地震が続き、駿河国富士山の西峰が噴火した。この年八代郡擬大領無位の伴直真貞に託宣があり、我は浅間明神なり、甲斐国に斎祭して欲しいので数々の災いをもたらしている。早く神社を定め、祝と禰宜を任命して祭奉るようにとあったので、占ってみたところ託宣と同じだったことから、明神の願いに依り、真貞を祝とし、同郡人の伴秋吉を禰宜にして、郡家の南に神宮を作り鎮謝した。
それでも噴火が止まないので使者をやって検察させたところ、せの海が千町歩も埋められていた。社宮は飾り造られていて、四隅には丹青石で造られた石垣が立ち、高さ一丈八尺、広さ三尺、厚さ一尺余で、石造りの社宮は彩色が美麗で言葉では言い表せないものだから官社に加えてもらいたいという願いで、これに従う。
■さらに、12月20日の記述には、甲斐国に八代郡と同じように山梨郡においても浅間明神を祭るよう伝えた。
以上が『日本三大実録』の内容ですが、では、この貞観7年12月9日の記述にある官社に列した甲斐国八代郡の浅間明神の祠はいずれの神社かということについて、『式内社調査報告』の論社考証を紹介しましょう。
『式内社調査報告』における八代郡浅間神社の論社考証
『三代実録』に記載のある貞観七年に八代郡に建てられた浅間明神の祠の論社については古来より、(A)東八代郡一宮町一ノ宮鎮座浅間神社(以下、一ノ宮浅間神社)、(B)南都留郡河口湖町河口鎮座浅間神社(以下、河口浅間神社)、(C)西八代郡市川大門町高田鎮座浅間神社(以下、高田浅間神社)のいずれかの諸論があり、『大日本史』、『神社覈録』、『甲斐国志』などでは、現在都留郡に属している(B)河口浅間神社は郡境変遷以前八代郡に属し、現在八代郡に属している(A)一ノ宮浅間神社は郡境変遷以前山梨郡に属していて、河口浅間神社こそが官社で式内社だとしているが、(A)一ノ宮浅間神社を八代郡の明神大社とみたい。その理由は、第一に(B)河口浅間神社が延喜式制定当時八代郡に属し、(A)一ノ宮浅間神社が山梨郡に属していたという確たる証拠がないから、(A)一ノ宮浅間神社が八代郡に当時より鎮座していたとして差し支えない。第二に(A)一ノ宮浅間神社付近が国府に近い特別地域で、大社が存在する可能性大である。第三に郡家以南に建てたとある郡家は、北東の地にある中尾神社の正祝屋敷である。第四に甲斐国明神大社が国府を離れた文化程度の低い地に存在するとは考えられない。第五に(A)一ノ宮浅間神社に初代祝の伴真貞を祀る真貞社がある他、伝承や資料が確たることがあげられる。
この『式内社調査報告』の論社考証は、調査報告者が初めから(A)一ノ宮浅間神社を式内社に定めたいという結論をもって、学者とも思えない私見的理由づけをした内容のものに思えてなりません。
この考証に対して、河口浅間神社宮司伴泰氏が、その著「甲斐国河口郷延喜式内名神大社 浅間神社正史『創立関係編』」において、河口浅間神社こそが延喜式内名神大社であるという論駁をしていました。以下その論駁内容です。
『三代実録』に記載のある浅間明神の論点として重要なポイントは、甲斐国八代郡の郡役所南に祀り、祀ったのは八代郡擬大領無位の伴直真貞で、社宮は石造りで美麗だということであるが、第一の理由にあげている河口浅間神社が当時八代郡であったかどうかについて、『大日本史』、『神社覈録』、『甲斐国志』などで、河口浅間神社は郡境変遷以前八代郡に属したと記述あることを無視することはできないであろう。
『甲斐国史』の八代郡の項に、今都留郡に属している大嵐七郷(河口以外の河口湖畔の七ヶ村)は八代郡で、郡家が河口に在って擬大領を置いていたことが三代実録にあると記載している。
また石禾(石和)、井上、林戸(林部)、能呂(野呂)の四郷は、『和名抄』には山梨郡十郷として載っているが、寛永以来八代郡に属しているということも記載している。
『和名抄』は『和名類聚抄』の略で、「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、醍醐天皇の承平年間に選進された我国最初の分類体漢和地名辞書で、律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅したもので、一ノ宮浅間神社は林戸郷に属していて、当時は山梨郡だったと言える。
従って、日本三大実録の官社に列せられた八代郡浅間神社は河口浅間神社であり、八代郡同様に山梨郡でも浅間神社を祀るようにとある山梨郡浅間神社が一ノ宮浅間神社であると解釈できる。
明治45年刊行の『帝国地名辞典』を見ると、河口の項には、「河口湖の東岸に在り、・・・、古へは八代郡に属せり。浅間神社は貞観年中の所建、延喜式に八代郡名神大社とあるは是なり。後世山梨郡の浅間神社興り、河口の神社衰える。俗に北口本宮という。」とあり、八代郡と山梨郡の項でも石禾、井上、林戸、能呂の四郷が和名抄とは異なり、後世郡域変動したと記載していて、甲斐国史と同じ内容である。
『一宮町郷土誌』の沿革の項にも、林戸郷は、・・・本は山梨郡に属していたと記載がある。
山梨郷土研究会編纂『山梨郷土史年表』において、能呂郷は今日の一宮町南野呂、北野呂付近、林戸郷は一宮町東原、国分付近、井上郷は御坂町井之上付近とあるように、能呂郷、林戸郷、井上郷、八代郷と続く位置関係にあるが、南野呂と東原の中間に位置する一ノ宮浅間神社が、井上郷を超えた先の八代郷に属すると考えるのは無理がある。
これらに対し、『甲斐国一之宮浅間神社誌』は「倭名類聚鈔」をみると、甲斐国の郷名として四郡の郷名を掲げた上で、八代郷の所在地を現在の一宮町中心に国衙、錦生、八代、高家の範囲としていて、その根拠は示しておらず、『和名抄』の解釈についての異説を述べている。
式内社報告者が、八代郡浅間神社は河口浅間神社であるとする多くの考証を無視して、河口浅間神社が八代郡であった確たる証拠がないと一刀両断に切り捨て、一ノ宮浅間神社が初めから八代郷にあったとする根拠は問題にせず、『甲斐国一之宮浅間神社誌』の記載のみを鵜呑みにした考証を行ったことは、到底納得できない。
ましてや、現在の河口地区が八代郡川口邑と記入された古絵図が見つかっているのである。
富士吉田市一地区に渡辺姓を名乗る家が四千余を数え、八幡渡辺、浅間渡辺、明神渡辺といわれて、氏神ごとにグループに分かれているが、そのうちの浅間渡辺を称する一家氏衆に大事に保管されてきた葛籠の中にあった六畳敷余の大絵図で、絵図中に「貞観元年の時」と記入されているが、貞観元年に作成されたのか、貞観元年時代を絵図にしたということなのかは不明である。武田大膳太夫写之と大書され、信玄公独特の朱色の竜の丸印が押捺されていることから、貞観時代の絵図を信玄公が写し取ったものではなかろうか。この渡辺一家衆は武田の家臣といわれる渡辺重太夫家を本家としている一家衆である。
河口浅間神社の前任宮司中村寅蔵氏は北巨摩郡明野村出身で、氏が神社に関係する以前の公平中立な立場での考証「八代、都留両郡ノ古境界考」において、甲斐国四郡領域の推定と、貞観噴火以降の富士山域、鎌倉時代からの氏族の勢力関係を詳述しており、八代、都留の古境界は河口以東の桂川、山中湖にあり、郡家は現在の八代町高家にあったと論述している。
これらの資料を提示する機会もなく、報告者が河口浅間神社を調査訪問することなく、考証をまとめられてしまったことは遺憾である。
以上が、伴泰氏の調査した資料をもとにした河口浅間神社が当時の八代郡浅間神社であるとの論駁内容ですが、八代郡の古境界は、御坂山塊の南の本栖湖から要路である若彦路の河口湖を含み、富士吉田の東側を流れる桂川流域だったいうのであれば、富士吉田市の新倉浅間神社の由緒に八代郡とあることも頷けます。
続いて第二~第五の理由についての論駁内容を紹介します。
第二の理由として、国府に近い特別地域に大社がある可能性大というのは、富士山噴火の鎮祭のための浅間明神を祀ることとは関係ない個人的付見で、富士山の見えない地に大社を立てると考えるより、富士山噴火の鎮祭を行った場所に立てたと考える方が心情に適う。『三代実録』の記述にも、使者が検察してせの海が埋められていることや石造りの社宮が美麗だということを報告して官社に列してもらうお願いをしていることから、富士山の見える地に社宮を立て鎮祭したと考えられる。
第三の理由である、中尾神社の正祝屋敷を郡家とする根拠もなく、中尾神社の神主屋敷と言い伝えられていることから、報告者のこじつけにすぎないと言わざるをえない。
『甲斐国史』の河川部、賽田川の条に、御坂山塊以南の八代郡域は山で隔てられているので、別に擬の大領を置き、浅間神社の祠を立て、伴真貞を祝に同郡の人伴秋吉を禰宜に任じ、斎祭したることは『三代実録』に記されている通りとあるが、本来の郡家とは別に、浅間神社北の秦氏跡地に支所的な郡家があったと考えれば、郡家南ということも無位擬大領というのも納得できる。
第四の理由として、明神大社が国府を離れた文化程度の低い地に存在することは考えられないと述べているが、当時の川口という地名は東海道御殿場から甲斐の国府に至る公路の駅舎で、一ノ宮浅間神社の地が一桜村だと考えれば、『甲斐国史』村里部に載っている民家や人馬の数は川口村が一桜村の数倍と多く、何をもって文化程度が高いといえるか不明であり、大社の立地条件として、第二の理由のところでも述べたように、富士山噴火の鎮祭を行う地としてどこが敵地か考慮する方が重要ではないだろうか。
第五の理由である、一ノ宮浅間神社の境内に真貞社があるからといっても、いつ頃奉斎されたものか、その由緒が明らかでなければならない。
河口浅間神社には、真貞社とは言わないが、表参道中央の波多志神社に伴真貞を奉斎しているという言い伝えがある。波多志神社は秦氏神社であり、伴真貞も秦氏の子孫と考えられる。
以上は、『式内社調査報告』の一之宮浅間神社を式内社とした報告者の論社考証における理由づけに対する論駁ですが、さらに、河口浅間神社こそが式内社であることの傍証事項を列挙していますので、それも興味あるものですので一部紹介しておきます。
河口浅間神社の社殿は慶長11年(1606年)に炎上し、同13年に再建されていて、炎上前には「お宮の上の美麗石踏めば沓の緒が切れる」、再建後は「お宮の前の美麗石踏めば草履の緒が切れる」と言われている屋根型の美麗石(ひいらいし)が、三代実録に記載のある石造り官社ではないか。石の裏を見てみると薄桃色の石で、近在のものでなく、左右妻型下懸の中心に、右に八葉左に六葉の花型紋が彫られていて、古代皇室の紋章(現在皇室は十六葉の菊花紋章)ではないかという考証もある。また、四隅の石垣は丹青石で造られたとあり、それに相当する石材が近くの天神沢から産出し、江戸時代には石臼として普及していた程である。
現在の河口浅間神社の裏手の小高い所に山宮社があるが、現地に浅間神社を創建する際、その地に元あった産土神を遷座したもので、これとは別に浅間神社の山宮社があったとされる。
浅間神社北側の北浦と呼ばれる地は河口地区で最も平穏な所で、上部には古代神主が住居した祝屋敷(ほおりやしき)という地名、その奥には郷倉屋敷という地名もあり、伴真貞の後裔で平安後期から文明7年(1475年)の頃までの450年余、歴代同名で河口の統領家河口左衛門尉の墓石と伝えられる五輪塔などが在った。墓所横の道を登っていった平坦地が旧山宮社地で、火打場と呼ばれていた。火打場は鎮祭の祈祷を行った場所の遺称と考えられる。
祝屋敷の屋敷神の神木が、昭和3年に国天然記念物に指定されたが、昭和32年に自然枯死したため、その跡地に記念碑が建てられている。
八代方面から古昔の公路である若彦路の大石峠を越えた大石の地にも浅間神社があり、由緒は判然としないが、『甲斐名勝志』には御手洗浅間というと記載されている。御手洗とは神仏を拝する前に参拝者が体をきよめるため、手を洗い、口をそそいだ場所であり、大石浅間神社を三代実録に記載のある八代郡浅間神社に対する御手洗浅間と考えることができる。
この大石浅間神社の東にはこの地一番肥沃な今も祝畑(ほおりばた)と呼称されている耕作地がある。御手洗浅間の本社である河口浅間明神へ神饌する作物を調達する畑だったのではないだろうか。また大石と河口の地区境に馬乗石と呼ばれた所がある。
若彦路を超えてきた一行は、御手洗浅間神社で禊ぎを行い、神饌物を整えて、河口浅間神社に向かう、そして馬乗石でいったん下馬し、そこからは歩いて浅間神社に参内して奉祭を済ませ、馬乗石で再び馬上の人となって、帰参したと想像される。
この他にも河口浅間神社こそが延喜式内名神大社であるという傍証事項が列挙されていますので、興味のある方は伴泰氏の『浅間神社正史』を読んでみてください。
神社や祭祀については門外漢であり、一宮とか二宮とか、あるいは本社とか、摂社とか、格式にこだわるものではないので、延喜式内名神大社浅間神社が河口浅間神社であるかどうかについては、考証内容の紹介にとどめますが、富士山を仰ぎ見る地に暮らす住民としては、富士山を仰ぎ見た時に浅間明神の鎮静を祈願し、河口浅間神社を訪れた時は美麗石に奉祭するよう心がけることが、浅間明神に対峙する一番有意義な行為のように思います。
先に紹介した、『日本三代実録』の貞観7年12月9日に記述されている官社に列した甲斐国八代郡の浅間明神を祀る神社は、彩色が美麗な石造りの社宮を祀っていた地に建立したと考えられ、河口浅間神社の美麗石がそれであるのか、あるいは後世になってのものかは不明ですが、浅間大神を奉祭する心を一番引き継いでいるのではないでしょうか。